大阪市電の想い出をたどって…(1)
大阪市電が街から姿を消して約50年…。
物心ついた頃から、親戚の家に行くため母に手を引かれ頻繁に利用した私は、今でも時折そのことを思い出します。
そのルートは、「自宅⇆聖天坂駅⇆(阪堺線)⇆恵美須町⇆(市電)⇆あみだ池⇆親戚宅」というものでした。
そんな遠い昔を、想い出を手繰りながらたどってみることにいたしました。
その旅の出発点は阪堺線の「聖天坂(しょうてんさか)」です。
(ともに2020年10月21日撮影)
踏切北西側の線路際に切符売り場がありまして、いつも初老のご婦人がおられました。
ちょうどこのあたりだったはずです。(2020年10月21日撮影)
切符以外のものを売っていた記憶がないのですが、軌道線から切符が姿を消したあと、しばらくのあいだ新聞などを売っていましたので、乗車券以外のものも販売していたのでしょう。
乗車券は、10枚綴りで1〜0まで記番されており、ちょうど回数券のような感じでそれを切って日付と発行駅名の入った丸いスタンプを押して販売していました。
これは昭和45(1970)年4月20日に東天下茶屋で発売された「3区」の乗車券で、発行場所も行先も異なりますがこんな感じの切符でした。
父のノートの中に、昭和14(1939)年2月28日にこの聖天坂で発行された回数券の表紙が残されています(ちなみに2月28日は亡父の誕生日です)。
1区回数券の券片です。
恵美須町行のホームへは、スロープではなく遮断器のうしろを通って段を上るようになっていました。これは今も変わりません。
電車を待つあいだ、恵美須町行の電車が来る方向を眺めています。
(2020年10月21日撮影)
1つ南側にある「天神ノ森」駅はカーブしているために見えませんが、「電車が天神ノ森に到着したら向こう側の遮断機が閉まり、発車すると手前の警報機が鳴り出して遮断機が閉まる…」、ということに気づいた時はとてもうれしかったのを覚えています。
下り浜寺駅前方面行側から見るとこんな感じです。
(昭和54(1979)年11月8日撮影)
やってくる電車は、大半がモ205形でした。乗降扉は車両の前後車端にあり、車内は座り心地の良い長いロングシートが据えられています。
聖天坂を発車してゆくモ214号恵美須町行(昭和53(1978)年頃)
GE社製の古典的な大きいコントローラー(大半がKー9とよばれるタイプでした)や集電装置のYゲルなど今も鮮明に記憶しています。
運転士さんは立って運転をしておられました。
たまにやってくる大型のモ151・161・301形電車は、座ってコントローラーを操作しておられたのでとても印象的でした。
聖天坂を発車するモ153号恵美須町行(昭和53(1978)年頃)
モ161形とモ151・301形とでは、コントローラーのハンドル形状が異なるので子供心にとても興味を惹かれていました。
一コマずつハンドルを刻んで加速してゆく手動加速タイプの161形、バネ仕掛けの小振りなハンドルによる自動加速タイプの151・301形…
のちに仲間に加わったモ121形は、161形よりもどっしりとした印象で、個人的にお好みでした。
121形は大阪市電からやってきた電車で、市電時代は1601形と呼ばれる性能も乗り心地もとても優れた電車でした。南海にやってきたこの電車は原型をとどめないほどの大改造を受け、軌道線電車の仲間入りをします。その際に新調されたコントローラーは、現在もモ601形電車に流用されて活躍中です。
モ124号浜寺駅前行が聖天坂を発車してゆくところです。(昭和53(1978)年頃)
最新鋭のモ501形や、木造101形電車のモーターを流用して501形並みの新造車体を載せた351形がやってくると「新車!新車!」と言って歓声をあげていました。
乗客が多かったせいか、恵美須町行の電車に乗って座ったという記憶があまりありません。前後の運転台横付近に陣取ることが多かったように思いますので、運転士さんや車掌さんの所作をつぶさにながめることができたのでしょう。それらの所作は今でも目に焼き付いています。
その昔、昼時間帯にモ205形を利用しての帰宅時だったと思いますが、母・兄と一緒に3人で進行方向の運転台右側にたっていたときあ、突然何がが飛び込んできました。兄の服にバッタリとついたものは「イチジク」でした。
おそらく走行中の電車上空を飛んでいた鳥が落としたものではないかと思いますが、「前の窓がフルオープン」していた懐かしい時代ならではのできごとでしょう。
いつも運転台横に陣取っていたせいか、前面展望(後方展望)はよく覚えているのですが、車窓の風景は残念ながらあまり記憶に残っておりません。
恵美須町は1番線若しくは2番線に到着でした。
恵美須町駅2番線に到着するモ231号(昭和53(1978)年頃)
私の記憶に残る最も古い鉄道風景は、この恵美須町駅1番線に到着した205形電車からホームに降り立ったところです。
恵美須町駅1番線に停車中のモ224号(昭和53(1978)年頃)
1番線と2番線に並ぶモ224号とモ231号(昭和53(1978)年頃)
この頃の恵美須町駅のお話は、恵美須町移転直前にさせていただきました。
今でもしっかりと目に焼き付いている光景です。
(1978号)
この記事へのコメント
♪ デトニ2300様
おっしゃるとおり「阿倍野」は阿倍野斎場前交叉点にある「阿倍野」です。地元では「阿倍野近鉄前」と区別するために「斎場前」と呼ぶ方もたくさんおられました。
南海軌道線の歴史に詳しい識者の方のお話では、通常大型車は前後の扉のみで客扱いをされており、車掌さんは後端の扉付近に詰めておられたそうです。
後ろ扉が締め切られ、乗り降りが中央扉になったのはいつ頃からかはよくわかりません。申し訳ありません。
阪堺線のワンマン化は昭和54年10月1日だったと記憶しています。
残念ながら大阪市電の記憶は国鉄大阪駅周辺しかありません。
平野線や阪神の国道線とかは乗ってましたけど、市電はどうだったんだろう?
そういえば、国鉄大阪駅周辺にはトロリーバスが通っていたのを見た記憶があります。
未だ環状線が繋がってなくて城東線だった頃です。
色々懐かしいです。
車掌さんから買い求める乗車券は「車内補充券」ですね。
黒鞄から取り出し、日付や乗車停留所7、乗り換えの有無などのパンチをパチパチと入れておられました。
環状線西側が西九条まで到達した時は、まだ線路がつながっておらず、階段を登って乗り替えた記憶があります。
ほんとうに遠い遠い昔のお話になりました(笑)。